寿安堰・茂井羅堰と円筒分水工

Go Index 日本の川へ戻る 北上川水系に戻る 胆沢川へ戻る Last update 2003/10/24



若柳堰堤からの水路トンネル出口

壽安徳水
昭和三十一年○○吉日
伊藤○○



円筒分水工



円筒分水工
 胆沢平野の大部分の田んぼや人々の生活に使われる水のみなもとは、約400年ほど前から、胆沢川から取り入れていましたが、胆沢川の水の量が足りなかったことと、水を流すための大きな二つの道である寿安堰・茂井羅堰の水の取り入れ口が近かったため、水の分け方による争いが絶えませんでした。
 その争いを解決する方法として採用されたのが、この円筒分水工です。
 円筒分水工は、施設を人の手で動かすことなく、上流から取り入れた用水を、円の角度の大きさによって、寿安堰・茂井羅堰の水の道(水路)に配分する理想的な分水方法です。
 この分水工は、第一回目の事業である国営胆沢川農業水利事業によって昭和34年に完成し、これが使われるようになってからは、用水の配分についての争いは全くなくなりました。
 円筒分水工を出て、取り入れ口水門から下流の寿安幹線用水路(山側)と茂井羅幹線用水路(川側)は、第二回目の事業である国営胆沢平野農業水利事業によって平成元年度に完成したものです。



寿安堰跡
 胆沢川を水源として、穀倉胆沢平野を東西に流れる寿安堰は、胆沢町小山、南都田、若柳、水沢真城、古城、前沢の各地域を潤しています。
 この堰は、藩政時代、福原(水沢市)に居住していた伊達政宗の臣、後藤寿庵(安)に依って開さくされました。
 寿安堰が起工された年代及び範囲については、いまだ不詳ですが、おおよそ元和年間(1615〜1624)といわれています。その後、寛永2年(1625)千田左馬父子や遠藤大学等によってうけつがれ、現在の寿安堰の基礎が築かれました。この遺跡(西北約1200m地点)は、投じのおもかげを残すもので寿安の足跡が偲ばれます。
 ※規模 上限幅14.10m 下限幅 4.90m 開さく深 8.60m
 昭和61年6月 日 胆沢町教育委員会



胆沢平野水利の開祖寿庵、茂井羅は、共に胆沢川に取水口を求め取水していた。しかし取入口は、それぞれ上、下流にあることから、後世は常に水争いが絶えなかった。
 これを解消すべく国営事業を導入し、昭和三十三年円筒分水施設の完成を見るに及び、夢にまで見た取入口の一本化が実現したのである。
 人々は大いに喜び、この地を聖地と定めて当時の総代、役員、職印らが樹木や岩石を献じ労力を奉仕して、後藤寿庵、北郷茂井羅、千田左馬、遠藤大学の碑を合祀した。
 徳水園の名は、これら先人の遺徳を永遠にしのび賛仰するために命名したものである。
 昭和五十五年十月十五日
 改良区創立三十周年を記念して
 胆沢平野土地改良区

寿安堰

国道397号上堰橋から下流をみる


茂井羅頭首工



水利使用標識
河川名 一級河川北上川水系胆沢川
許可年月日・許可番号 平成10年3月30日 建東水第82号
許可期限 平成18年3月31日
許可権者名 東北地方建設局長
水利使用者名 農林水産大臣
施設の名称 茂井羅取水口
水利使用の目的 かんがい用水
取水量
 0.560m3/s(従前の許可)
 Q=4.832m3/s
かんがい面積 A=(2513.8)ha
取水施設管理者名 水沢市中上野町3番2号胆沢平野土地改良区
所轄事務所名 岩手工事事務所(電話(019)624-3131番)


徳水園内の石碑







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