北上川源流 御堂

Go Index Back 北上川水系に戻る Last update 2005/10/16








 北上山御堂観音堂・北上川源泉地
 俗に御堂観音と称せられて居る此処「天台宗北上山新通法寺正覚院」は大同二年六月坂上田村麻呂将軍が祈祷所として建立されたといわれ、その一族である僧了慶が開基と伝えられている。
 天喜五年六月、安倍頼時征伐の為、源頼義、義家父子が馬を進めた折、打続く炎暑に苦しみ賊徒平定もはかどらず本国を伏拝み救世祈念、義家が弓弭をもって岩をうがち泉を得たと言われ今尚清水が湧き出て北上川の源泉をなしている。
 伝えられている処によると、その際寄進したという陣中釜は今も御堂にあり、本堂の千手観音像は南部氏(盛岡市)が此の地を領した際守り本堂として当院に保存管理、今日に及んでいる。
 また御堂脇にある大杉は千二百余年の風雪を生き抜いた県下有数の老木として賞せられている。
    平成五年五月
    岩手町教育委員会

北上山御堂縁起
當山は大同二年坂上田村麿将軍の創建にかかる勅願の 名刹正覚院といわれ本尊十一面観音奥州三十三番中三十 二番目の霊場である        御詠歌
 よしあしを何といわでの岩つつじ
   まよいをてらせ九世の誓いに
其後天喜五年旧六月源頼義、義家父子が安部頼時、貞任、宗任 等を討伐(前九年役)の際観音の霊験によって清水を得大勝を 博したので感謝のため一宇を建立して義家の念持佛、黄金の千 手観音像を安置し新通法寺と稱した この清水は弓弭の清 水と名付けられ北上川の源流となり御堂村の名も生れたといわれる 戦国時代(天正の頃)に一時行方不明の観音像が羽柴秀吉の持佛と なっていたところ蜂須賀小六正勝、抜群の戦功あり秀吉から恩賞 として正勝に下賜され以来蜂須賀家の家宝として代々の崇敬厚か ったが宝永七年十一月徳島藩主蜂須賀飛騨守隆長の姫春子の方 が南部三十二代利幹公の奥方として入輿の時に持参祠せられ奇しくも百 数十年ぶりで再び南部にお國入りとなったのである
爾来南部家では城中奥深く代々の大守自ら鄭重に祭祠を司ど られるならわしとなって今日に及んだ
この御本尊の徳島時代に同藩の危急を救われた不思議の霊 験あり「はらみ観音」の名で愈々尊崇を受け南部藩においても 屡々御利やくを現わされ其のほか信仰、祈願の者に対する功徳 利生の実例も数多く従って賽者跡を絶たず現在に至っている
  例祭
 一.正月三日 例大祭
 一.六月十三日 厄除、先手観音夏祭
 一.七月九、十日 四万六千日詣り観音功徳日







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