二ヶ領用水久地円筒分水工

Go Index 日本の川へ戻る 多摩川へ戻る Last update 2003/06/25






<二ヶ領用水>
 多摩川の水を取り入れ、わたしたちの先祖が汗水たらす苦労と、十数年の歳月を費やし稲毛領から川崎領にいたる二ヶ領(現在の多摩区から川崎区まで含む地域)にわたる農業かんがい用の水路として、慶長16(1611)につくられたものです。別名<次太夫堀>とも呼び、工事を指揮・監督した、小泉次太夫の功績を今に残しています。その後、享保9(1724)年に田中兵庫が行った大改修工事をへて、今日の用水路の基礎が完成しました。
 この用水は多摩川流域ではかんがい面積の最も大きな用水で、最盛期で2850ヘクタールにも及びました。そして農業用水及び、飲料用水のほか工業用水としても利用され、日常生活などに欠くことのできない大切な水路として管理されてきました。
 わたしたちも、このように歴史的に由緒ある<二ヶ領用水>を子孫にすえながく引き継いでいきたいものです。
<円筒分水>
 上河原(中野島)、宿河原、二つの取り入れ口から取り入れた多摩川の水は久地で合流し「久地分量樋」へ導かれていきました。
 久地分量地は、ここから川崎堀、根方堀、六ヶ村堀、久地・二子堀という四つの水路に水を分ける施設で、それぞれのかんがい面積に比例した樋(水門)が設置され、それによって水を分けたものです。
 この分量樋は、昭和16年(1941年)に円筒分水につくりかえられましたが、当時の科学技術の粋を集めた画期的なもので、現在でも使われています。

円筒分水
中野島と宿河原の取入れ口から流れ込んだ水は久地で合流し、「久地分量樋」へ導かれていた。「久地分量地」は、川崎堀、根方堀、六ヶ村堀、久地・二子堀に水を分ける施設。それぞれの耕地面積に応じて用水の幅を分割する樋が使われていたが、水量をめぐる争いが絶えず、より正確な分水が望まれていた。
 この円筒分水がつくられたのは昭和16年。サイフォンの原理を応用して新平瀬川の下をくぐり、円筒の切り口の角度で分水量を調節するしくみになっている。
農業用水の施設としては、当時の科学技術の粋を集めた大変すぐれたものだった。

国登録有形文化財 二ヶ領用水久地円筒分水
(にかりょうようすいくじえんとうぶんすい)

 この円筒分水工と呼ばれる分水装置は、送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらない定比分水装置の一種で昭和16(1941)年に造られました。
内側の円形の構造物は整水壁とも呼ばれ、一方向から送水されて吹き上げる水を放射状に均等にあふれさせ、送水されてくる流量が変わっても、円弧の長さに比例して一定の比率で分水される、当時の最先端をいく装置でした。
平成10(1998)年6月9日に、国登録有形文化財となっています。






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