有泉榮一君碑

Go Index 日本の川に戻る 信濃川水系に戻る 大河津分水路に戻る Last update 2003/10/05


(大河津分水可動堰右岸)

内務技師有泉榮一君碑
君山梨縣中巨摩郡南湖村人學于帝國大學明治四十年十二月任内務技師官修信濃川分水工事也君測量其地形拮拒經營為山間部工場主任鋭意督衆當事會土石崩壊殆失前功君克建善後策事將成大正七年五月轉任北海道廰技師八年九月得病遽卒年僅四十惜哉君性沈毅公直而勤勉執業部下悦服接其訃追慕弗措知友胥謀樹石以勒功予為書其梗概云
大正十三年九月 本間健撰并書

有泉栄一君碑
 世紀の大土木工事であった大河津分水の工事には、当然のことながら、当時の気鋭の土木技術者が集まっていました。二十代後半で着任した有泉栄一内務技師もその一人です。
 せっかく堀割った水路が地すべりにより、たびたび埋まってしまい”ばけもの丁場”と恐れられていた分水一番の難所、河口山間部の工事主任として、明治四十年から大正七年まで十年十ヶ月を過ごしています。
 大正七年分水の完成を待たずに北海道へ転任した有泉氏は、翌大正八年四十歳の若さで病のため、故人となられました。
 氏は、分水工事の特別功労者の一人であり、内務省はその功績をたたえ、大正十三年工事の竣工と同時にこの碑を建立したものです。
 当初、河口部に建立されましたが、昭和二十五年に故人ゆかりの地である分水路第二床固右岸に移し、昭和六十二年に再度この地に移したものです。

有泉栄一君碑
筆者 本間健四郎(寺泊町出身県議会議員)
建碑 大正十三年九月
建立者 内務省


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