ヨハネス・デ・レーケ像

日本の川と災害 > 日本の川 > 木曽川水系 > ヨハネス・デ・レーケ像  Last update 2008/02/13


愛知県愛西市立田町福原
152 757 391*63



治水の恩人
ヨハネス・デ・レーケ
Johannis de Rijke
衆議院議員 江崎真澄書












(裏面)
 木曽三川近代治水百周年に当り、治水の権威、オランダ人、故ヨハネス・デ・レーケ像を建立し、氏の不朽 の功績を顕彰することは、洵に意義深く同慶の至りである。 氏は、明治六年、日本政府の招聘により来日し、 当時の大蔵省土木寮御雇工師として、また明治十年より内務省土木局工師として、全国主要河川の改修計画の 指導に当った。 明治十一年、木曽三川の流域を踏査し、「治水は治山にあり」という治水理念に基づく木曽 三川改修意見書を提出し、山林の保護を力説し指導に当った。 明治十九年、木曽三川の完全分流を目指す木 曽川改修計画を完成し、明治二十年、当時の土木工学上最高の工法をもって改修工事が着工の運びとなった。
かくて、薩摩藩による宝暦治水工事以来の歴史的難工事の三川分流は、明治三十三年に一応の完成を見るに至 った。 木曽三川の治水に半生を賭けたデ・レーケは滞日実に三十年、不滅の足跡を残して、明治三十六年、 故国オランダに歸国した。 氏の帰国に際し、明治政府は勲二等瑞宝章を贈り、氏の功績に報いた。因みに氏 の在任中の待遇は、赴任当初の報酬月額参百円、退任時は五百円以上と伝えられている。当時、知事の報酬月 額弐百円という明治の初葉にあって、氏に対する殊遇は洵に異例のことであった。 この度、郷党相寄り、デ ・レーケの顕彰に当り、母なる木曽三川の恩恵と、先人の不屈の死闘に感謝の誠を捧げ、「木曽三川流域は一 つ」の連帶をもって、限りない発展を期する次第である。「未来につなごうふるさとの川」
   昭和六十二年      木曽三川治水百年記念事業実行委員会   名誉会長  田中精一


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