竹鼻別院 竹中伝六墓

Go Index 日本の川に戻る 木曽川水系に戻る 宝暦治水に戻る Last update 2006/12/02


羽島市竹鼻町 竹鼻別院

羽島市岐阜県指定史跡 薩摩工事義没者 竹中伝六喜伯墓
羽島市教育委員会

薩摩義士竹中傳六之墓



春光院釋法善





羽島市指定岐阜県指定史跡
薩摩工事義歿者
竹中伝六喜伯之墓
羽島市竹鼻町下城 竹鼻別院
 この人は幕府の直臣で、宝暦四年〈一七五四) 薩摩藩が幕命によって実施した木曽三川改修 の御手伝普請を監督するため、同年二月当地 に来て一の手普請場(市内中、南部)に属し 御小人目付となった人である。
 一の手普請場の第一期工事は三月に完成し、 逆川締切などの第二期工事も年内に完了して 今はただ検分を待つばかりとなっていた翌年 正月十三日、突然この竹中氏が竹ヶ鼻村の止 宿先旅館藤丸屋平右衛門方に於て刺刀で自害 を遂げたのである。
 これは幕府側としては二人目であって、そ の理由は遺書もなく不明であるが、二十九歳 という若さと役目柄からみて、恐らくは監督 上の責任を負ったものと思われる。
 寺の過去帳には、その後の年回供養が、村 の庄屋と藤丸屋によって長く続けられたと記 す。今は墓前の大藤が往時を偲ばせている。
  平成十六年三月再建
       羽鳥市教育委員会




岐阜県羽島市指定天然記念物
竹鼻別院のフジ
岐阜県羽島市指定史跡
薩摩工事義没者 竹中伝六喜伯墓
竹鼻別院境内

 竹鼻別院の由緒

 嘉禎元年(一二三五)親鸞聖人が関東からの帰途、三 河の柳堂で教化された時、葉栗郡門間の庄、河野四郎通 勝等九人の者が教えを受け、木瀬に草庵を結び聖人を迎 えた。後世これを「河野九門徒」と言い、濃尾真宗門徒 のはじまりであり、この草庵が竹鼻別院の前身である。  文明二年(一四七〇)蓮如上人ご巡化の折、洪水で流 れた草庵を再興し「河野御坊」と名付けられた。その後 河野御坊は専福寺と改称されたが人災・天災などで何度 も移転した。
 戦国時代、本願寺と織田信長との一向一揆(石山合戦) に、当時の住職忍語が出陣し戦死した。慶長九年(一六 〇四)教如上人はその功に報い、寺を「御坊」とし新加 納村から竹ヶ鼻村に移し、五十四ヶ寺を配下にした。 竹鼻の下町にあった「御坊専福寺」は、再度の類焼に遇 い現在の地に移転したのは、宝暦十年(一七六〇)であ る。明和八年(一七七一)から五十年の歳月を要し完成 した本堂は、明治二十四年(一八九一)の濃尾大震災で 倒壊した。しかし、「法燈を護らねば」と、篤信の門信 徒達によって直ちに、南北八開・東西十八間の仮本堂が 建立された。
 現在の本堂は大正四年(一九一五)から大正十一年に かけて再建された。なお、「竹鼻別院」と改定されたの は明治十九年(一八八六)である。
岐阜県羽島市竹鼻町下城二八〇二
     真宗大谷派・竹鼻別院


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