神宮神社 薩摩義士顕彰碑

日本の川と災害 > 日本の川 > 木曽川水系 > 宝暦治水 > 神宮神社薩摩義士顕彰碑  Last update 2007/07/04


羽島市江吉良町 神宮神社





薩摩義士顕彰碑
 神宮神社は桑原輪中の中央に位置し、 昔はすこぶる大社であった。
 その後、神社は水害の多発ではなはだ 衰微し、神社の辺りは七間江(現在の 桑原川)と呼ばれた。
 宝暦四年(一七五四)薩摩藩のお手 伝いによる治水工事があり、総奉行平 田靭負らは、この神社に参詣し、工事の 無事、早期完成を祈願した。
 この時案内したのは、平田靭負の禅門の 友である清江禅寺の鉄舟和尚であった。  清江禅寺は、かって神宮の宮寺で、 ここから北東一・五キロメートルの地にあ る。工事で義殺した、一之手奉行瀬戸 山石功、同副奉行平山牧右衛門、 大山市兵衛を祀る墓がある。
 寺での義士頌徳祭は毎年盛大に営 まれる。

(裏面)
平成十三年四月二十五日
鹿児島ライオンズクラブ羽島ライオンスクラブ姉妹盟約四十周年
として鹿児島桜島の溶岩を以って建立する。



神宮神社の由来
 祭神は天照大御神で、江中の氏神である。
昔は神官大明神と申し上げていたが、明治維新後に 神宮神社と改称した。このお宮は現在四方を田圃に 囲まれているが、昔は一の鳥居が上中町午北裏にあ り、境内が十三町六畝(一三〇六〇〇u)もある大 社で、近郷十八ヶ村の総社であったと伝えられてい る。長寛二年(一一六四年)に平清盛がこの宮に祈 願して、伊勢神宮より来られた神主奥田七郎高貞に 感状を授けた。この感状は奥田行雄家に所蔵されて いる。しかし、永万元年(一一六五年)再度の祈願 のとき、祈願が意の如くならなかったのを怒り、社 殿を始め一切の付属建物を焼き払い、宮寺の泰壽山 も安覚寺も共に灰燼に婦したと、奥田家の古文書に 記せられている。その後形ばかりの小社を建てて今 日に及んでいる。神主は農民となって現在の江吉良 町七六八番地に移住し、宮寺も現在の地に移転した  第一一代垂仁天皇の第四皇女倭姫命が、天皇即位 二五年(BC二〇年項)に、天皇の詔りを畏み、神 器を奉持して諸国のお宮を廻り給いしとき、このお 宮で御休息になった。また、宝暦治水工事のとき、 薩摩藩士瀬戸山奉行、平山、大山の副奉行が、この お宮の御神徳の深さを知り、清江寺住職鉄船和尚を 介してこの宮へ治水工事の竣功を祈願したという由 緒あるお宮である。神宮神杜には金矮鶏の啼く声の 伝説、楠の化石の伝説などがある。社殿は昭和二年 に改築され、昭和五五年にも再改築されている。手 水舎は昭和五九年に野々宮神社より移築され現在に 至っております。毎年一月一日の除夜祭の行事が行 なわれ、田植休み、お盆、祭礼のときには、提灯を 燈してのお詣り(百八燈)がされている。


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