常栄寺 薩摩義士墓

日本の川と災害 > 日本の川 > 木曽川水系 > 宝暦治水 > 常栄寺 薩摩義士墓  Last update 2008/01/26


海津市平田町今尾 常栄寺
MAPCODE 78 285 432*57







宝暦四戌歳
妙法宗言信士
七月七日

薩州平田氏内
黒田唯右衛門

宝暦治水薩摩義士顕彰之碑
六十周年記念 平田町文化協会
平成十七年三月二十八日



宝暦薩摩義士有縁一切照明之霊位為供養



岐阜県指定史跡 海津市指定史跡 昭和五十六年五月十九日指定
薩摩義士 黒田唯右衛門の墓
 薩摩藩お手伝普請による第一期治水工事は 宝暦四年五月下旬に終り、同年九月下旬から の第二期工事起工までの間、薩摩お手伝方は 工事材料の材木の伐採、搬出、石材・砂利・ 切土の収集、輸送に当たった。これら材料の 収集はお手伝方の昼夜を分かたぬ必死の努力 にもかかわらず遅々として進まず加えて普請 済み場所の破壊等の支障が続出し作業は困難 を極めた。この間にあける幕府側の督促は非 常に厳しく再三にわたりお手伝方は歯をくい しばって耐えたが悲憤の中、責を負って切腹 する者が相次いだ。宝暦四〜五年の全工事、 期間中の割腹者は五十二名であったが、特に この準備期間中の割腹者は三十六名を数え、 この時期にあける幕府役人の圧迫や仕打ちが いかに冷酷苛烈であったかを物語っている。
黒田唯右衛門は、三ノ手工区に属し、大薮の 出張小屋詰めであったが、宝暦四年七月七日 切腹した。その理由は詳らかでないが、他と 同様幕府の迫害と、いやがらせに対して、死 を以て抗議したものであろう。想像を絶する 苦難の中、遠く薩摩の地を離れた異郷で果て ていった唯右衛門の胸中は如何ばかりだった ろうか。
墓石は、中央に「妙法宗言信士」 左右に「宝暦四戌歳七月七日」 と刻されている。
 岐阜県・海津市教育委員会

岐阜県史跡薩摩工事義歿者之墓
義士 黒田唯右衛門 宝暦四年七月七日歿


日本の川と災害 > 日本の川 > 木曽川水系 > 宝暦治水 > 常栄寺 薩摩義士墓  Go Topページトップへ

メール送信 kasen.net Copyright(C) 2006-