大中寺 薩摩義士の墓

日本の川と災害 > 日本の川 > 木曽川水系 > 宝暦治水 > 大中寺 薩摩義士の墓  Last update 2007/02/04




宝暦治水薩摩義士之霊

平成六年秋彼岸
鹿児島県薩摩義士顕彰会建立





宝暦治水薩摩義士之墓

薩摩義士の墓建立由緒

 岐阜県養老町天照寺隣接の薩摩義士の墓が昭和三十四年の風水害 によって埋没、災害復旧の時五柱の御遺骨が発掘され、その分骨を 故松下庄一郎氏(当時坊津町在住真珠養殖業)が鹿児島に持ち帰り 供養されていた。同氏物故の後は御遺骨は大中寺に安置し、薩摩義 士顕彰会において供養を続けてきた。
 大中寺から用地提供の御懇志があり、義士の二百四十年祭を機に 御遺骨と宝暦治水工事で尊い犠牲となられた薩摩藩士八十五名及び 藩士以外三名の墓十五ヶ所の霊土を埋葬し合わせて治水工事に参加 された全ての藩士の御霊も人魂することとし、墓の建立を発起し、 広く県内外の有志の御懇志により建立した。
 今後、宝暦治水工事の歴史が広く語り継がれ、御霊の供養が永久 に続けられることを祈念し、墓建立の由緒を記すものである。
   平成六年秋彼岸
     鹿児島県薩摩義士顕彰会会長 島津修久

宝暦治水薩摩義士墓所

薩摩義士の墓由緒
宝暦3年(一七五三)、徳川幕府は、洪水や悪水停 滞で困窮している木曽・長艮・揖斐三川流域の住民 救済のため、大規模な治水工事を計画し、薩摩藩に お手伝い普請を命じた。この命を受けた藩主島津重 年は、窮乏した藩財政に苦慮しながら、工事の総奉 行に平田靭負、副奉行に伊集院十蔵を任命し、約一 千人の藩士たちを美濃の地に赴かせた。工事は約四 十万両の工事費と一年三ヶ月を要して完成したが、 難工事に加え幕吏や地域住民との対立、悪疫の流行 などにより、平田靭負を始め切腹した者五十四名、 病死した者など三十四名という数多くの犠牲者をだ した。これらの犠牲者は、京都、岐阜、三重の各地 の十五ヶ所の寺院に葬られ、今でも現地の人々によ って手厚い供養がされている。鹿児島に薩摩義士の 墓を建立した機縁は、昭和三十四年の風水害によっ て、岐阜県養老町の天照寺の義士の墓が洗われ、そ の分骨を鹿児島にお連れしたことに始まる。その後 、遺骨は大中寺に安置し、供養を続けていたが 義 士の二百四十年祭を機に、工事で犠牲となられた義 士、工事に参加されたすべての藩士の御遺徳を顕彰 し供養するため、墓の建立を発起し、数多くの御懇 志により大中寺に墓塔が完成、平成六年九月十五日 、入魂式を執行した。義士の永遠の御冥福を祈念し 、多くの方々の墓参を願うものである。
  平成七年四月 鹿児島県薩摩義士顕彰会



薩摩義士名碑

 薩摩藩士
 宝暦四年
永吉 惣兵衛  四月 十四日 割腹
音方 貞淵 十四日
甚八  五月 二四日 病死
江夏 次左衛門  六月  五日 割腹
茂木 源助 十七日
右衛門 二六日
新右衛門 二七日 病死
黒田 唯右衛門  七月  七日 割腹
藤崎 伊右衛門  八日
尾上 半兵衛 十二日 病死
六平 十三日
助次郎 二一日
永田 伴右衛門 二六日 割腹
角助 二七日
井手 上渡右衛門 二八日
松崎 仲右衛門  八月  三日
新右衛門  四日 病死
恒吉 軍太郎  五日 割腹
八郎左衛門  八日
六左衛門  八日 病死
瀬戸山 石助  九日 割腹
野村 八郎右衛門 十四日
平山 牧右衛門 十五日
利右衛門 十五日 病死
八木 七郎左衛門 十八日
前田 兵右衛門 十九日 割腹
川合 瀬兵衛 二十日 病死
権右兵衛 二十日
喜右衛門 二十日
大山 市兵衛 二一日 割腹
薗田 新兵衛 二二日
萩原 勘助 二二日
提岩 智全居士 二三日
石塚 仁助 二四日
長左衛門 二五日 病死
浜島 喜左衛門 二七日 割腹
永山 孫市 二九日
滝聞 平八 二九日
鮫島 甚五右衛門  九月  一日
市右衛門  一日
上田 金左衛門  三日
永山 嘉右衛門  三日
惣左衛門  六日 病死
本田 甚五兵衛  九日 割腹
永山 市左衛門  九日
横山 治左衛門 十一日
岩七 十三日 病死
深見 勘助 十五日
永田 杢左衛門 十五日 割腹
崎元 才右衛門 十六日
稲富 市兵衛 十九日
吐田 軍七 二十日
貴島 助右衛門 二十日
浜島 紋右衛門 二三日
藤井 彦八 二三日
六左衛門 二七日 病死
長八 二七日
八内  十月  五日 割腹
四本 平兵衛  七日
田中 善兵衛 十五日 病死
三四郎 十七日
川上 島右衛門 十九日 割腹
太田 喜三右衛門 二三日 病死
家村 源左衛門 二四日 割腹
長助 二四日
籾木 稲右衛門 十一月  三日
郷田 喜八  九日
仁八  九日 病死
山本 八兵衛 二一日 割腹
大灌 十左衛門 二一日 病死
権四郎 十二月  八日
鬼塚 喜兵衛 二八日 割腹
 宝暦五年
助四郎  一月 十二日 病死
輿八 十二日 病死
和田 善助  二月  二日
大橋 七郎右衛門  九日
覚左衛門 十三日
山口 清作  三月  四日
空山 道鉄信士 十二日 割腹
松下 新七  四月 二三日 病死
八郎兵衛 二八日 割腹
市右衛門 二八日 病死
仁助  五月  八日
平田 靱負 二五日 割腹
 薩摩藩士のほか
 宝暦四年
内藤  十左衛門  四月 二二日 割腹
 宝暦五年
竹中 伝六  一月 十三日 割腹
桝屋 伊兵衛  三月 二九日 人柱
 そのほか 宝暦治水工事に参加
された薩摩藩すべての有縁の義士


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