舛屋伊兵衛顕彰碑

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大垣市上石津町馬瀬 本堂寺



高木内膳家来
薩摩堰人柱
舛屋伊兵衛顕彰碑
  岐阜県知事梶原拓書



 舛屋伊兵衛由来記
 舛屋伊兵衛は、養老郡多良に生まれ、故あって多良のお殿様である高木内膳 家(東高木家)の江戸屋敷に誓い、神田紺屋町に住んでいました。高木家は、 西高木家、東高木家、北高木家と三家あり、寛永年間以後、木曽川水系におけ る国役普請のたびに普請奉行を勤めました。宝永二年(一七〇五年)からは、 美濃、伊勢、尾張の川通巡視役儀を命じられ、幕末まで一貫して日常的にも諸 河川の見分や見回り御用を勤めました。宝暦四年(一七五四年)の薩摩藩の御 手伝普請には、水行奉行として普請監督に当たりました。円楽寺治水古文書に よりますと、伊兵衛は、そんな高木内膳の家来となって普請監督に当ったとあ ります。ですから、水行に関する技術を持っていると同時に、舛屋という屋号 の御用達商人だったのでしょう。伊兵衛はまた、薩摩藩江戸芝邸留守居役家老 だった平田靱負とも、商売がら親しかったようです。宝暦四年に、高木内膳と 共に、伊兵衛は美濃へ帰国し、木曽三川治水工事に参加しました。そして、土 地の百姓や幕府役人とのあつれきに悩む平田靱負ら薩摩衆や、その間に入って 悩む主人の高木内膳の姿に胸をいためました。七月、八月になり石材も、人夫 も、木材も集まらない中、出水が続き、相次ぐ工事の失敗に責任を感じた薩摩 藩士の切腹がつぎつぎとおきました。そのうえ疫病がはやり、たくさんの百姓 や薩摩衆が亡くなりました。始めは治水工事の予定に入っていなかった最も難 しい油島の工事と大榑川の工事が、四月頃から持ちあがっていました。それが ついに九月十三日、油島を締切るか、中明けかどちらかにすることに決まりま した。 そして水行次第で、大榑川を締切るか洗堰にするか決められることに なったのです。さらに九月二十二日には、大榑川締切りになれば、小藪村堀揚 田工事が加えられることに決まりました。伊兵衛は、主人高木内膳と薩摩衆の 苦悩を思い、もう自分の命をもってこの難工事の克服を祈るよりほかに、方法 がないと思ったのでしょう。皆が心を一つにして工事完成に向って進んでいけ るように祈りながら、神仏の御加護を願って人柱となり、その九月二十二日に 、波浪さかまく水中に飛び込んだのです。幾日かの後、伊兵衛の死体が漂着し ましたので、高木内膳は大藪村円楽寺に行き、住職の慈賢和尚に永代御供養を 懇請しました。その後、ほんとに皆が力を合わせて、一心に工事に励むように なりました。同寺境内に残るその墓石に、次の銘があります。
  法名釈誓終往生
     宝暦五乙亥年三月廿九日
       武州江戸神田紺屋町
         俗名 舛屋亥兵衛
 死没年月日が工事竣工の翌日となっているのは、幕府をはばかっての作為な のでしょう。円楽寺過去帳には、「此ノ人ハ当国多良産ニシテ故アリ江戸ニ住 シ高木内膳ノ下人トナリタリ大榑川洗堰出来ノ節没ス、頼ニ応ジテ当寺ニ埋葬 ス 永代読経スベシ 住持 慈賢記ス」とあります。舛屋伊兵衛のお話は、劇 的に脚色されて、後世、いろいろな出版物となって伝えられています。
    平成十年八月三日
        碑文 角田茉瑳子 誌るす
追記
 この地方に次のようなお里伝説もあります。お里は、父が人柱になったとい う報せに気も動転し、言葉の出ない状態になってしまいました。それからの毎 日、お里は悲しみのあまり、長良川や大榑川の畔をさまよい歩きました。
 ある夕暮時、お里が川辺で東の山の端にかかる月をぼう然とながめていたと き、キジが鋭く一声鳴きました。お里はそのキジの声ではっと我に返えり、言 葉が出るようになりました。
「口ゆえに父は長良の人柱 キジもなかずばうたれまい」と。

口ゆえに父は長良の人柱 雉子も啼かずばうたれまい


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