寳暦治水之碑

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岐阜県海津市海津町油島 (揖斐・長良背割隄12k5付近)
MAPCODE 152 755 654*86



寳暦治水之碑

寳暦治水碑
     内閣総理大臣元帥陸軍大將正二位勲一等功二級侯爵山縣有朋蒙額
     樞密院書記官長従三位勲二等小牧昌業撰文 正五位日下部東作書
尾濃二州之地田野廣衍厥土沃饒有木曽長良揖斐三大川南注入勢海支川交錯或合或分市邑散
在其間者俗稱輪中毎霖雨水出衆流逓相侵淩輒致漲溢横决汎濫往往潰田畝漂廬舎民之苦之也
久矣寳暦年中幕府命薩摩藩修治之藩侯島津重年遣其家老平田靱負大目附伊集院十蔵等赴役
以寳暦四年二月起工至五月而止以夏時水長不獲施功也及九月復作翌年五月而畢費藩帑三十
萬兩始克告成幕府嘉其功賜重年時服五十襲其餘賞賚有差是役也藩士従事者凡六百人地亘十
餘里畫為四區衆各分任其事靱負為総奉行十蔵副之幕府亦遣吏監視修隄防疏溝渠建閘排柵築
堰累籠或創設或修補遠近呼應畚鍤相接而其尤致力者為油島防堵大榑築堰盖油島當木曽揖斐
兩川相會處洪流激甚大榑川受長良川地低湍急故施工甚艱随作随壊困頓支持迄以有成按當時
經營之迹其要在務使諸水各循其道以防侵凌漲溢之憂而其計莫急於斯二者是其所以注全力于
此也於是輪中十里之地無復有慘害如往時者民安其業以至今日世稱之曰薩摩工事後来三川分
流之策實基于此役己竣総奉行平田靱負俄自刃而斃其他前後自殺者數十人就塟安龍海蔵等諸
寺事載其過去牒顧其致死之由奮記靡得而詳焉土人傳言工事艱鉅出於意料之外功屡敗于垂成
以致経費逾額然勢不可中止故寧決死成事而謝專擅増費之罪也想當時士風淳樸人重紀律崇氣
義諸子既奉君命就功程不遂則不己苦心焦思之餘計不得巳以至于此土人所傳當不謬也然則是
役事業之偉且艱可以想見而諸子之堅志不撓舎身徇公竟能全其職守以貽澤於後世則可謂古之
所稱以死勤事功徳加民者矣豈不韙哉尓来百五十年矣居民猶頒薩摩工事而不衰言及死事者則
有歔欷泣下者 皇治中興百度維新凡興利除害之事次第修舉三川分流之策亦果施行成功將在
近茲地人士既感 聖世仁澤之洽因念寶暦創始之功又哀致命諸人之義烈不忍使其泯没莫聞胥
謀建石勒其功績以垂永遠来徴余文余不能辭乃為叙其梗概云
明治三十三年二月                           井龜泉刻字



 宝暦治水碑
 宝暦治水の遺業を顕彰するため、岐阜県海津郡海津町油島地内、約五百五十坪の跡地に、当時の建築費二千六
百円をかけて「宝暦治水碑が建てられました。
 石碑は、高さ二・七メートル、幅一・五メートルの根尾川石で赤坂山から発掘された天然石を台石とし、建碑
祭は明治三十三年四月二十二日午後三時より現地において、当時の内閣総理大臣山県有朋など政府の高官多数が
参列する中、厳粛にしかも盛大に行われました。
 この建碑式は、三川分流成功式に引き続いて行われており、参列者は、成功式の行われた海津町成戸より鵜飼
船二十四艘に乗って、油島まで来ました。

(碑原文省略)

   宝暦治水の碑
              内閣総理大臣元帥陸軍大将正二位勲一等功二級候爵 山県有朋 篆額
              枢密院書記官長従三位勲二等 小牧昌業 撰文 正五位 日下部東作 書
 尾張・美濃両国の田野は、広く肥沃な地なり。木曽・長良・揖斐の三大川あり、南流し伊勢湾に入る。支流入
り乱れ、或は合し、或は分かる。集落はその間に在り、俗に輪中という。長雨のたびに川は荒れ、水溢れて堤は
切れ折々に田畑を潰し、家屋は流失した。里人は昔から洪水で苦しんできた。
 宝暦三年、幕府は薩摩藩に治水工事を命ず。藩主島津重年は家老平田靱負・大目附伊集院十藏等をつかわし工
事にあたらせた。宝暦四年二月工事開始、同年五月一時中止。夏期は増水し工事が捗らないためだ。同年九月再
開、翌年五月竣工す。藩の財産三十万両を支出して工事を成す。幕府は讃えて重年に季節の衣服五十着を賜い、
他の者にも賞を与えた。工事に従事した藩士およそ六百人、六十余キロの区域を四区に分割し進めた。総奉行は
靱負、腹部業は十藏。幕府は役人を派遣して監督させた。堤の修復、水路を掘り、水門や堰を構築、蛇篭を積み
重ねるなど創設、或は修復する。遠近で働く者互に気脈を通じ、もっこやすきを振った。一番力を尽くした工事
は、油島喰違堤と大榑川洗堰の築造なり。想うに油島は木曽・揖斐両川の合流点で激流逆まき、大榑川は長良川
の水を受け 河床低く水勢激しく、難工事で作っては壊れた。多くの困難を克服し互いに支え合い完成を見る。
当時の状況を調べると、要点は諸川の流れを良くし、洪水の憂いを除くことにあった。この二点が急務で、油島・
大榑川の工事に全力をそそいだのである。これによって輪中地帯の水渦は減少し、里人は安心して生業に励み今
日に至る。世にこれを薩摩工事という。後世の三川分流計画はこの工事に基づく。
 事を終えた総奉行平田靱負は程なくして自刃す。他に前後して自害する者数十名あり。義歿者は桑名の安龍院・
海蔵寺等の諸寺に葬り、芳名を過去帳に載せた。だが死因については記録なく明かでないが、里人の言に「工事
の悩みは意外に多く、作業しばしば崩壊し、ために経費は超過した。さりとて挫折する事も出きず、死を覚悟し
て事を成就し、費用を増資した罪を詫びたのである。想うに当時の藩士の気風は素直で気どらず、規律を重んじ
正義を尊ぶ。命令を果さずば止まぬの気概に満ち 心痛の余りやむなく死に至った。」と里人の伝うること信なり。
されば当時の役割や難工事を想い見るべし。藩士の心ざし堅く、身命を投げ打ちておおやけに従い、職責を果し
て恵みを後世に残した。すなわち昔からいうところの死を以って務め、功徳を民に施した者といえよう。まこと
に誉れ高いことである。
 以来百五十年を経る。里人今に至るも偉業を讃えること忘れず。話が義歿者の事に及ぶとすすり泣きする者あ
り。明治の世になり色々な事が新しく変った。くらしも便利になり、さまざまな害も無くなってきた。三川分流
工事も施行され完成も間近である。この地の人々、現代の深き恩恵に感じ、宝暦治水の功績を偲び、義歿者を悼
み、その偉業を忘れないようにと有志と謀り石碑を建て、事蹟を刻んで後世に伝えるため私に撰文を求める。辞
する事出きず工事のあらましを述べた次第である。
   明治三十三年二月

裏面には工事において散華された藩士の芳名が刻まれている。


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