長州藩士治水顕彰碑

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長良川左岸51.2k付近(四ツ屋公園内)
MAPCODE28 646 227*86

長州藩士治水顕彰碑
内閣総理大臣 佐藤榮作書

 本県は木曽、長良、揖斐の3大川をはじめ200余の河川、網の
目のごとく、ために暦年水禍に悩まされてきた。幕府は明和3年
(1766)文政3年(1820)の2回にわたり、長州藩(山口県)に対し
本県治水の「御手伝普請」を命じた。第1回には多数の長州藩士が
現地に派遣され、延べ70里(280キロメートル)工事現場は方県郡正木村
(岐阜市)など1000余箇所、2ヶ月におよぶ大工事となり、第2回は
「御手伝普請」の分担金4万両を超え、このため長く長州藩財政を
圧迫することとなった。
 ここに深くその功績をたたえ、県民謝恩の顕彰碑をたてる。
 昭和44年秋
  岐阜県長州藩顕彰会 会長 岐阜県知事 平野三郎

長州藩士治水顕彰碑
 明和3年(1766)、文政3年(1820)の2回、山口県にあった長州藩に対し、幕府から
木曽三川の改修工事がお手伝い普請として命じられた。
 お手伝い普請とは、幕府が諸大名に工事費の一部を負担(お手伝い)させて行う工事で
あり、明和3年4月に長州藩は総奉行の益山喜次郎と、副奉行の児玉三郎右衛門以下473人
の藩士を任命すると共に、約80人を先行させて若狭小浜藩の酒井家、周防岩国藩の吉川家
と共に、笠松で奉府の役人から全長70里、1,000ヶ所以上の工事場所の割り振りを受けた。
 第2回お手伝い普請の時は、文政の大地震のため崩壊した堤防の復旧工事のための経費を
石州浜田・周防岩国の2藩と共に負担し、長州藩の負担は4万両を越え、藩の財政が悪化す
る原因となった。
 こうした長州藩のこの地における治水事業に対する功績を、後世に伝えるために
顕彰碑が昭和44年(1969)に建立された。
 「参考文献 昭和62年3月 建設省中部地方建設局 郷土の碑を訪ねて 他」


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