霊台橋

Go Index Back Last update 2000/06/11


 この地に橋が架けられたのは文政二年(1819)のことで、住民の悲願により時の惣庄屋三隅文八等が中心となって木橋を架設したものですが、その後、度重なる洪水によって架替えが繰返されたため、弘化二年、篠原善兵衛の惣庄屋就任により石造「目鑑橋」の架設が計画されるに至りました。
 工事は翌三年二月から本格的に決まり、弘化四年(1847)二月に完成して渡初が行われました。施工は大工棟梁の万助、伴七をはじめとする地元の大工達や、石工棟梁として種山村の卯助ほか近在の多くの石工達によって行われました。
(彼等やその一族は後に命じ政府に仕え、東京で二重橋をはじめとする多くの架橋に携わっています。)
 橋は建設以来この地方の幹線道路として長く風雪に耐え使用されてきましたが、昭和四一年に上流側へ鉄橋が架けられ国道としての役割を終わり、以後は砥用町の所有となって保存されています。
 霊台橋は九州を中心として数多く存在する石造アーチ橋のうち、単アーチとしては、八年後の造られた通潤橋と並んで日本最大のもので、**のいきさつも明らかであり、当時の民衆の力と技術が結集されて築きあげられたものとして、江戸時代後期の日本の石橋の代表的存在となっています。
(砥用町教育委員会現地説明板による)












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