関東大震災避難記念碑

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日本の川と災害 > 日本の災害 > 関東大震災 > 関東大震災避難記念碑  Last update 2007/03/03


避難記念

貴族院議員正四位伯爵有馬頼寧 篆額
嗚呼想ひ起すも肌に粟を生するを覺ゆるは大震火災の状況なり時は大正十二年九月一日所 は新大橋の上難を避くる數萬の大衆の九死に一生を保ち得たるは實に神人一致の力と申す べきか此の時橋の兩側より狂ひに狂ひ燃えに燃え來る紅蓮の舌は毒焔を吐きつつ刻一刻と 橋上に迫る退くも火進むも火身を躍らして河に投ぜむか滔々たる濁流は一氣に呑み去らむ のみ進退維れ谷り號叫の聲天に漲り慘状目も當てられす此の時大衆は橋上に御遷座あらせ られたる水天宮及小網稻荷神社玄冶店橘神社の御靈代を伏し拝み神助を熱禱したり又警官 在郷軍人其他有志の人々は火を導く恐ある荷物を悉く河中に投せしむ中には貴重の物とて 泣きて拒みしも萬人の生命には替へ難しとて敏捷果斷なる動作は寔に時宜を得たる處置な りき漸く人享を盡し神助を待ちたるに夜も明け火も鎮まりて大衆は始めて我に還り知るも 知らぬも再生の思をなして喜び合ひたり且つ五大橋中此の橋のみ災害を免れ得たるは正に 神助と人の力となりけり其後法木徳兵衛主唱し森田恒一加藤肆郎庄野又兵衛之に賛して發 起者となり此の橋上にて免れたる人々相集り大震火災新大橋避難記念會を組織し毎歳當日 を期して水天宮に報賽の祭典を行ひ同橋上に集りて當時を追憶し來る乃ち本年は満十回に 當るを以て思出深き新大橋西側の一隅に碑を建て事を叙して之を永久に記念となす
 昭和八年九月二日
 水天宮社掌 樋口悌次郎撰
 荷葉山岸惣書


(東京都中央区日本橋浜町2-57 隅田川新大橋西詰)

(裏面)
建碑寄附者芳名
金伍百圓也 水天宮社務所

・・・略・・・

發起人
日本橋區人形町三丁目十二番地 法木徳兵衛
日本橋區人形町一丁目四番地 森田恒一
日本橋區濱町三丁目一番地 加藤肆郎
日本橋區濱町三丁目一番地 庄野又兵衛
日本橋區濱町三丁目十四番地 星野 錫
向嶋區寺嶋町六ノ八六 有馬秀雄

・・・以下略・・・

「人助け橋」のいわれ
 大正十二年(一九二三年)九月一 日、突如として起こった関東大震災 は随所で火災を誘発し、そのため各 所で橋が焼け落ち多数の痛ましい犠 牲者を出した。しかし幸いにも明治 四十五年に建造された新大橋だけは 火災からまぬがれ、逃げ惑う一万有 余の尊い生命を救い、かつ、遮断さ れた各方面への交通を一手に引受け て、避難橋としての重責を十分に果 たした。そのため、新大橋は多くの 人々から「人助け橋」と呼ばれ永く 親しまれるようになった。
 なお、当時久松警察署の新大橋西 詰派出所に勤務する羽鳥源作、三村 光、今給惣克巳、植木機禅、伊藤盛 雄、浅見武雄ら各警察官は一致協力 して多数の避難者を誘導し、さらに 携行してきた荷物を橋詰で適切にさ ばいて火災の防止と避難路の確保の ために活躍されたという。一身を顧 りみず沈着勇敢に行動されたその功 績は、永く後世に称えられるべきも のである。

(裏面)
東京都建設局
昭和五十二年三月二十七日建造


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