東京都慰霊堂

日本の川と災害 > 日本の災害 > 関東大震災 > 東京都慰霊堂  Last update 2016/10/10


墨田区横網2-3 横網町公園内

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
 顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった。与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った。戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった。江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った。当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが同二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
 昭和二十六年九月
 東京都





震災遭難児童弔魂像

 この記念像は、大正十二年九月一日午前十一時五十八分、関東地方に発生した大地震により不幸にして災害に遭い死亡した小学校児童約五千人の死を悼み、この不遇の霊を慰めかつ、弔わしむることと、永く当時を追憶し、その冥福を祈るため、当時の学校長等が中心となり、弔魂碑建立を企画し、第五回忌辰に際しこれを発表した。それに共鳴する者が、十八万二千二十七名に及び、その醵金は、一万四千六十六円四十七銭にも達した。
 その基金で、彫刻家小倉右一郎氏に製作を委託し、完成後当時の財団法人東京震災記念事業協会に寄付し、その後東京都に引継がれたものである。
 なお、この悲しみの群像は、昭和十九年第二次世界大戦たけなわのころ、戦力増強の一助として、金属回収の禍いを受け撤去され、台座だけがむなしく残されていたが、昭和三十六年当初の作者、小倉右一郎氏の高弟である、津上昌平、山畑阿利一の両氏によって、往時の群像を模して、再建されたものである。
 東京都
(現地説明板より)

追悼
関東大震災朝鮮人犠牲者

この歴史
永遠に忘れず
在日朝鮮人と固く
手を握り
日朝親善
アジア平和を打ちたてん

幽冥鐘

幽冥鐘の由来
 この弔霊鐘は、関東大震災により遭難死した死者追悼のため、中国仏教徒の寄贈によるものである。
 震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促した。
 また、各方面の回向が終わったのちは、「幽冥鐘一隻を鋳造して、これを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、この鐘声の功徳によって永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言した。
 その後災情が日を経るに従い甚大であることが明らかになったので仏教普済日災会の代表二名が来日し、京浜両地区の慰問を行い、これと同時に我が国の外務大臣並びに仏教連合会に梵鐘の寄贈を申し出たものである。
 その後、震災記念堂の計画確定によりこの鐘を横網町公園に安置することになった。
 なお、このことについては上海の王一亭氏の特段の人力があった。
 東京都
(現地説明板より)

復興記念館

本館は、東京震災事業協会が、大正十二年九月一日に発生した関東大震災の参事を永く後世に伝え、官民協力して首都東京を前にも増して、復興させた当時の大事業を、永久に記念するため、震災記念堂(現慰霊堂)の附帯施設として建設されたもので、二階建総面積一、一七六・九平方米で昭和五年九月に起工し、同六年四月竣工、同年八月末日東京市に寄贈されたものである。
 館内には遭難者の遺品、被害品及び絵画、写真等をはじめ、復興事業に関する諸資料を保存展示するとともに、あらたに戦災関係と、一部宮城県沖地震の資料を加えて陳列し、広く一般に災害予防に関する知識を普及するために開館されている。
一.開館 午前九時より午後九時まで(ただし入館は午後四時三十分まで)
一.入館料 無料
一.休館日
 十二月二十九日から翌年一月三日まで及び毎週月曜日
(月曜日が祝日の場合はその翌日)
 八月三十一日・九月一日、二十二日〜二十四日が月曜日であっても休館しない。
一.左記の方は入場をお断りします。
 (一)付添いのない児童で満十二歳未満の者
 (二)泥酔者その他管理に支障あると思われる者
一.注意 許可なく写真撮影その他営業行為をしないこと。

(現地説明板より)

横網町公園復興記念館(震災記念屋外ギャラリー)
YOKOAMI OPEN GALLERY
大正12年(1923年)9月1日午前11時58分に発生した関東大震災の被害は、死者及び行方不明者10万6千人余、負傷者5万2千人余、家屋の損害は69万4千戸余にも達した。ことに家屋の密集した東京の下町では、地震後発生した大火災による猛火、熱風により、諸々の建築物はもちろん多くの人々が焼死し、その光景はさながら地獄絵の如く惨たんたるものであった。
当「震災記念屋外ギャラリー」は、その震災による被災品を転じすることにより、過去におきたその惨劇を後世に伝え、二度と同じような不幸がおこらないことを深く願って建造されたものである。

鉄柱の熔塊
Mass of Melted Iron Pillar
大日本麦酒株式会社吾妻工場内の鉄柱が、猛火により熔解し、かたまりとなってしまったものである。

釘の熔塊
Mass of Melted Nails
大日本麦酒株式会社吾妻工場内で、樽に入った釘が震災の猛火による高熱のため、大熔塊となったものである。

魚形水雷
Burnt Torpedo
東京高等商船学校(現東京商船大学)内で焼損した魚形水雷(魚雷)の残がいである。

破壊した大鉄管
Broken Main Water Pipe
当時、淀橋浄水場の敷地内に山積みされていた水道の幹線が、激震により無残にも損壊してしまったものである。

自動車の焼骸
Remains of a Burnt Car
自動車のボディが焼失し、シャシーだけが残ったもの。この自動車は車両番号第一号という古い歴史を持ち、銀座の明治屋商店で震災直前まで使用されていたという。


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