元禄潜穴

Go Index 日本の川に戻る 宮城県内の川に戻る 高城川に戻る Last update 2002/04/18




元禄潜穴穴尻

仙台藩が元禄六年(一六九三)から文久元年(一八六一)までの約一七〇年にわたり品井沼の水を松島湾に排水するため掘った二条の潜穴で沼内より海口まで総延長七三一九メートルである。



元禄潜穴ずり穴遺跡

元禄六年から文久元年までの約一七〇年にわたる品井沼干工事に伴い品井沼の水を排水した際の土砂釣り揚げのため竪穴であるである。

松島町指定文化財「元禄潜穴」説明板

 元禄潜穴について
 元禄潜穴は、品井沼の水を松島湾に排水し、鳴瀬川の逆流を防いで水害を無くし品井沼に新しく「水田」を開くことを目的に造られた人工のトンネルです。
 江戸時代の元禄六年(1693年)から元禄11年までの5年間に亘り工事が行われ、多くの犠牲者を出しました。
 又、鶴沢竪穴(現在地)は別名「ずり出し穴」とも言われ元禄潜穴工事の手法によって掘られた縦穴であります。
 品井沼と松島湾の勾配差が4.59mしかありません。又潜穴の長さが2,578mに及ぶため、当時の技術としては、工事が不可能だったと判断され、そのため、まず竪穴を掘り、縦穴と縦穴の間に横穴(潜穴)を掘る、手法が取られたと考えられています。

 (元禄潜穴工事内容)
(1)北部平堀(品井沼から穴頭まで)
 *長さ 1,754m *幅 27m *深さ 2m
(2)潜穴(穴頭から穴尻まで)
 *長さ 2,578m *幅 3.6m *高さ 2.4m(2連)
(3)南部平堀(穴尻から松島湾まで)
 *長さ 3,065m *幅 18m *深さ 2m
(4)竪穴(ずり出し穴) 10箇所





おまん地蔵堂碑
 仙台藩が元禄六年(西暦一六九三年)から行った品井沼干拓は、現在まで二百八十余年を経て黄金の波を織りなす美田となったがその蔭には潜穴工事に従事した農民の数多くの犠牲と苦難が秘められている。
 享保年間の工事に犠牲となり水死したその娘の霊をまつったと伝わる、おまん地蔵の堂宇が腐朽したので有志を計り浄財を募ってこの堂を再建した。ここに干拓犠牲者の鎮魂と稲富を念じ録して後世にに伝える。

 昭和六十年七月六日
 碑題字、撰文 松島町文化財保護委員 岩木 隆
 発起人(以下略)



元禄潜穴

 仙台藩は産米を確保するため、新田の開発の政策を勧め、その一つとして、志田、黒川、宮城の三郡にまたがる品井沼の水を直接松島湾に排水干拓を計画。藩士大越喜右衛門(おおこしきうえもん)の指揮により、地下排水路の工事を元禄六(一六九三)年七月に起工。五年間かかり当時の技術により困難と犠牲を乗り越え、元禄十一年八月に完成した。沼の水を穴川で幡谷明神へ導き、途中十数本の縦穴を掘って土砂を運び上げ、高さ二.四メートル、高さ三.六メートル、長さ二.五キロメートルのトンネル二本を根廻猫迫(ねまわりねこはざま)まで掘り、現在の高城川を広げて松島湾へそそぐ、全長約七.四キロメートルに及ぶ大工事で、歴史的な遺跡である。

 松島町教育委員会

元禄潜穴穴頭

仙台藩が元禄六年(1693)から文久元年(1861)までの約170年にわたり品井沼の水を松島湾に排水するため掘った二条の潜穴で沼内より海口まで総延長7319メートルである。








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