鎌田三之助翁顕彰碑

Go Index 日本の川に戻る 宮城県内の川に戻る 高城川に戻る Last update 2003/04/15


鎌田三之助翁顕彰碑

鎌田三之助と品井沼干拓

 「草鞋村長」として有名な鎌田三之助は 品井沼排水事業に生涯を捧げた鎌田玄光を祖父とし その遺志を継いだ三治の二男として 文久三年(西暦一八六三年)当時の木間塚村竹谷(現鹿島台町)に生まれた
 明治十一年十五歳の春 青雲の志を抱いて上京し 明治法律学校に学んだ 明治十六年帰郷し父を助けて干拓に携わる一方 明治二十七年三十一歳で県会議員に選ばれ二期県政に活躍 同三十五年三十九歳で衆議院議員に当選し二期国政に参与し 大いに将来を嘱望されたが たまたま海外発展の急務を覚り 同三十九年自らメキシコに渡っていよいよ移民計画の実施に当ろうとしていた矢先 明治四十一年亀井宮城県知事から「シナイヌマモンダイフンジョウ キカノアッセンヲマツ」という帰国要請の電報を受けたのである
 その頃品井沼水害予防組合管理者(宮城郡長)と請負人との間に争が起り 又工事続行派と中止派とに分れて軋轢し 知事の仲裁もままならず止むなく鎌田氏をメキシコから呼び戻すことになったのである
 帰朝した三之助は「私財を蕩尽してもこの水害から村々を救おう 沿岸八百ヘクタールの水害を防止し 新たに美田一千ヘクタールをつくろう これが荒廃した郷土の更正になる」と決意を新たにし かくて東奔西走 反対者を訪ねては 熱烈に説得し 工事続行を軌道に乗せたのである
 丁度その折も折 明治四十一年の秋 東宮殿下(大正天皇)が奥羽史蹟御調査のため東北地方に行啓中であられたが 藤波侍従の配慮もあり御召列車が盛岡から仙台に赴かれる途中 駅でない松島村根廻新潜穴の下流橋上に一分間停車されることになった 殿下は御陪乗の寺田知事に対し「天下の大工事であるから 中途挫折等の事なく竣工せしめよ」とのお言葉を賜ったのである
 元禄以来 幾度か企図して未だ果さなかった干拓工事が鎌田氏の熱誠あふれる努力により遂に貫徹したのである 殊にこの大工事は政府の補助金に頼らず 勧業銀行からの貸付金九十万円によって自力で成就したものである (組合費と新干拓地の収入で償還した) 明治四十三年十二月二十六日の通水式には知事をはじめ一千人が参列し 元禄穴川の通水以来二百十二年目の感動に満場しばし声なく 感激の涙をおさえるのであった
 勢いよく潜穴の中へ流れていく品井沼の水は あたかもいままでの苦難を洗い流すかのようだった この式典に三之助は祖父 父の位牌を背負って参列した 「祖父も父も感謝しつつ草葉の陰から眺めたろうと思います」 余りの嬉しさに次の漢詩を賦した

 魚鼈蚊龍何処辺
(ぎょべつこうりゅういずこのへん)
 蒼波萬傾尽稲田
(そうはばんけいことごとくいなだとなる)
 若教世道如人意
(もしおしえせいどうじんいのごとくんば)
 豈費経綸三百年
(あにけいりんさんびゃくねんをついやさん)

 翁の没後四十四年 品井沼周辺地区の今日の興隆は 一に鎌田翁の畢生の努力の賜である 最も恩恵を受けた我等相図り この地に一碑を建立しその偉業を顕彰し 永く後生に伝えるものである

 平成六年七月十四日

 鎌田三之助翁顕彰碑建設委員会 建之
 高橋孝一郎 謹撰 謹書

(碑文より)


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