明治潜穴復旧記念碑

Go Index 日本の川に戻る 宮城県内の川に戻る 高城川に戻る Last update 2004/02/26


「治水興農之礎」

明治潜穴復旧記念碑
 熱情あふるる住民の血と汗の一大プロジェクト「品井沼干拓」をそのように呼びたい 干拓水田史に金字塔を立てたこの大事業は 元禄時代にその曙光を見出してから 明治 大正 昭和に受け継がれて二百八十余年 干拓の申し子である鶴田川の最終的改修を僅かに残して終わろうとしている その今日的成功の鍵であった明治潜穴 いかにも明治的名称であるこの河川隧道は 元禄干拓に威力を発揮した元禄潜穴に代るべき排水隧道として 明治四十三年に新登場して以来その齢七〇年を越えるに至った 元禄六年に着工された元禄潜穴は 松島町幡谷から根廻に至る延長二六〇〇米で二条からなり元禄干拓の排水に大きく貢献した
 爾来年を経るごとに幾多の洪水を経験して 風化 内部崩落が顕著となり七回にわたる改修を施してからも 二〇〇余年を経た明治中期にはその維持困難が訴えられ抜本的対策が衆望されるに至った 明治三十四年品井沼水害予防組合が設立されて 新しい改修を企図するに至った所以である オランダ人技師セイ・ファン・ドールンの意見 中山秀三郎 杉野茂吉らの実地調査結果を基に検討され その結果実現したのが現在の明治潜穴である 松島町泉ヶ原に位置して延長一、三〇九米 巾員六米 高さ四米の偏馬蹄型断面の素掘り造りであるが その呑口 吐口 下流地質脆弱部をレンガ巻立にして 明治三十九年着工以来四年を経て同四十三年に完成した 工事は難工を極めながらも幾多の曲折を乗り越え 完全直線形で寸部の狂いもなく実現したことは 近代土木技術の一大勝利ともいうべきものであろう 品井沼干拓は かくして促進され 豊沃な耕地水禍から守るのに大きな力を発揮することになったのである 元禄潜穴は既に埋れ 干拓地の生命はこの明治潜穴に左右されることになった
 日本列島は 西に大陸棚の日本海を有し 東に深淵日本海溝を配して極めて不安定であると言われ それ故に世界で有数の地震多発地帯である 昭和五十三年六月十二日午后五時十四分突如として仙台市を中心に襲った大地震は 死者二十七名 家屋被害十七万戸 登米地方の錦桜橋を始めとする北上川長大橋の落橋損壊 仙台港石油コンビナートのタンク破損による油流出 水道ガス管の破裂等 言語に絶する被害を出した その震源地は金華山沖六〇キロメートルの海底四〇キロメートルで マグニチュード七・四の規模を記録して 仙台市では震度五の強震であった 一九七八年宮城県沖地震と命名されたこの大地震は 明治潜穴にも大きな被害を与えた 脆弱部と言われたレンガ巻立部を中心に 下流部六〇〇米が崩壊ないしは深部亀裂を受け その河川隧道としての存立が危ぶまれるに至ったのである 一朝有事の洪水に見舞われるならば 美田と化した干拓地は元の泥沼 品井沼に戻ること必定と見た県は 時を移さず全面的な調査に入り これが対策に乗り出すことになった
 復旧には莫大な工事費を必要とすることから 国の助成措置を仰ぐこととし 直ちに建設省所管公共土木公共施設災害復旧事業による短期復旧を企図して申請することとなった 幸いにも建設省の深い理解により 緊急の災害査定を実施され事業採択の運びとなったが 決定されたのは昭和五十三年十二月十三日である
 復旧事業は未被災部分も同時改修し その効果をあげることとし 県単独費をも投入して 国 県あげての体制で進められることになった 齢七〇年の明治潜穴はかくしてその寿命を伸ばし これを永久的なものにするため 現代的技術により装いを一変することになったが 偶然のこととは言え正に轉禍為福の機会に恵まれたというべきであろう 復旧事業はその延長六〇〇米 巾五米 高さ四米の馬蹄型断面の構造とし 旧レンガ部を除却して全川コンクリート巻立工として実施することとなり 昭和五十四年一月十八日着工にこぎつけることができた 施工は予想外に難工であった 旧レンガ巻立部の地質脆弱はひどく 掘削中に大崩落があるなど あわや人身事故にならんとすることもあった 工事の安全性を重視する立場から 愼重なる工法の検討を繰り返し セメントミルク注入による地盤改良 緩地掘削工法の採用 全面支保工 工事中の排水水質の中和による水質保全の措置を実施しながらの工事遂行であった 総事業費として投入すること十三億三千三百余万円着工以来二年九ヶ月を要して昭和五十六年十月復旧は無事完工した
 明治の先人は人力のみでこの潜穴を完成させたという 一、三〇九米の掘削を 四年の短期間で完成させたと記録は教えている 現代に比べ遙かに劣る技術力での達成は 驚嘆に値すべく感無量である 然し今 改装成った明治潜穴は 永久構造ともいうべきコンクリート巻立である 如何なる試練にも耐えるものであることを信じて疑わない 明治末期から今日まで品井沼地区排水の役割を演じてきた明治潜穴は 現代技術によって永久に生きる河川隧道生れ変り そしてこの使命を今後常しえに発揮するに違いない しかし忘れてならないのは先人の偉業をいつのときにも思い起すことであろう
 往時の姿を最下流部十米の区間レンガ巻立てそのままとし 又隧道内には間尺による距離標を明治の姿そのままに埋込んで これらを保存した所以である 数多の古き思い出を刻んで命名された明治潜穴であるが 改修を機会に現代的な名に相応しく高城川トンネルと改称することとし ここに記念碑を建立する
 昭和五十六年十月
 宮城県

(裏面)
宮城県知事 山本壮一郎
鹿島台町長 鹿野文永
大郷町長 武田寿雄
松島町長 磯田光雄


(高城川トンネル出口側)


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