史跡 旧湊川址碑

Go Index 日本の川に戻る 兵庫県内の川に戻る 新湊川に戻る Last update 2004/03/22


史跡 旧湊川址
昭和八年四月建立 神戸市


(神戸市長田区湊川公園内)

湊川のいまむかし

〜由緒ある町・湊川の歴史と現状〜
梅は岡本、桜は生田、松は兵庫の湊川
(兵庫木やり音頭−7番歌詞より)

中略

川でない湊川のこと
いま湊川という名前の川はありません。しかし、70年ほど前までは湊川という川が現実に存在していました。明治30年代に行われた湊川つけ替え高じの時に、新湊川トンネルを通じて苅藤川に結ばれ、今も地下を流れています。湊川という繁華街はあっても、どこにも川らしきものがないのはそういうわけなのです。
湊川は、何度か日本史の舞台になったことがあります。そのひとつが平安時代の源平合戦。松本通りの願成寺に残る三つの供養塔はこのときのものです。また、荒田、夢野、石井、平野一帯に帝都が移され、およそ半年間でしたが、福原京と呼ばれた時代もありました。この時、清盛の手で初めて兵庫に港が開かれたのです。そして、鎌倉時代、楠公さんが湊川合戦で死闘をくり広げた話は、あまりにも有名。後に水戸黄門が楠公さんの墓碑を建てたこともよく知られています。

まちかどの史跡
荒田町
 もとの湊川の東堤防に接して「荒田町」があります。「あらた」というのは、きわめて古くからの名です。
 ここは水害の多いところで、湊川に大水がでると、上手(今の菊水橋のところ)のカーブする堤が切れてはん乱した水が田んぼに流れ込んでいました。そのためこの土地はたえず荒され、作物も作れない土砂の荒地だったことから「荒田」と名付けられたといわれています。明治の中ごろの地図を見ても、湊川の東の土手下にあたる今の荒田町一、二丁目の附近は荒れた砂地のまま残されており、昔の様子がわかります。昭和十三年の大水害では荒田町一帯は湖水のようになり、昭和四十二年の豪雨でも大きな浸水被害がでました。荒田町は、八百年も前から湊川の大水のために災害を受けた歴史を残しています。
 また、仁徳天皇の姉に荒田郎女という名前の人があり、町名の由来はその人の名代地だったからとする説もあります。

以下略



荒田町から旧湊川をみる

天井川であったことがわかる


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