岩永三五郎之像

Go Index 日本の川に戻る 鹿児島県内の川に戻る 石橋公園に戻る Last update 2006/06/04


岩永三五郎之像

寄贈 前迫初實
平成二年十月五日



岩永三五郎顕彰の由来
肥後の石工 岩永三五郎幸安は、寛政五年(一七九三)熊本県八代郡東陽村に生まれ、「性質淡薄寡欲にして、まことに良工なりしは人の能く知る所にして、水利を視、得失を考え、大数を測るに敏なる、はじめて見る地といえども神のごとし」と評され、その人物、土木技術のすぐれたること薩摩に聞こえ、天保十一年(一八四〇)、時の家老調所広郷に一族共々招かれ、藩内一円の営繕、土木事業の責任者として、その腕をふるった。
 すなわち、阿久根の古田修繕、出水、国分、加治木の新田開発、市来の水道、伊集院から出水への道路、山川指宿から鹿児島への道路、鹿児島本港護岸工事(三五郎波止場)、井堰、稲荷川、甲突川の河川改修、西田橋をはじめとするその眼鏡橋の築造は鹿児島、川内、串木野、指宿の各地におよび、三五郎およびその一族にいたっては九州各地に一九〇余りの眼鏡橋を架橋し、なかでも三五郎の甥丈八は、明治政府に招かれ皇居の二重橋等々を架橋した。
 薩摩藩在中十年もの間、地元の石工共々その献身的な働きにより幾多の土木事業を成し遂げた。岩永三五郎は、嘉永二年(一八四九)薩摩を去り、嘉永四年(一八五一)十月五日、八代郡鏡町芝口にて五十九才で没す。
 ここに岩永三五郎はじめ、その一族の労苦に思いを馳せ、その偉業を後世に伝えるものである。
     平成二年十月五日


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