高麗橋

Go Index 日本の川に戻る 鹿児島県内の川に戻る 石橋記念公園に戻る Last update 2006/06/04




















 鹿児島市の中心を流れる甲突川の五石橋(武之橋、高麗橋、西田橋、新上橋、玉江橋は、薩摩家老・調所広郷の財政改革(天保年間)の成功により、城下整備の一環として肥後(熊本県)から招かれた石工・岩永三五郎によって架橋されました。
 しかし、平成5年8月の集中豪雨による洪水で武之橋と新上橋は流失しました。残った3橋は河川改修計画に合わせて、祇園之州地区に一体的に移設復元し、末永く保存活用することになりました。
 高麗橋は五石橋の中でも2番目に長い、4連アーチの石橋でした。上流側の水切り石は垂直に近い勾配で立ち上り橋面近くまで築かれていました。この大きな水切り石や河床に敷かれていた敷石で水の勢いが減らされ、橋が守られていました。
 高麗橋は1847年の創建以来、明治42年には橋面勾配の改修、大正10年頃には水道管を添架、昭和20−30年頃にかけては戦災やその後の自動車等による破損に対する改修が行われていました。高欄、橋面敷石、水切り石などは特に多くの補修がされていましたが、工事の記録が残っていないため、つくられた当時の形状を特定することは困難でした。
 しかし解体時の形状が、基本的には、明治12年の改修後の形状を残していると判断されたことから、市民に慣れ親しまれてきた大正末期の姿に復元しました。



石橋の構造

アーチ石
 石橋を支えるもっとも重要な石です。
水切り石
 大雨の時には水を左右へ分け、壁に当たる水の力を和らげて壁石を守ります。五石橋の中でも一番大きく、高麗橋の特徴になっています。
護床敷石
 河床に敷かれていた石により、水の勢いが減らされて橋が守られていました。
壁石
 中詰め土砂や中詰め石が崩れないよう外壁に築きました。川の流れに踏ん張る形で壁に傾斜をつけていました。
 これは見た目に安定感をますだけではなく、洪水時の水の力を下に向け橋を守ります。
耳石
 耳石は、橋面敷石の一番外側にある石で、壁石の外に張り出しています。
高欄
 高欄は、すべてコンクリートでつくり替えられていましたので、新しい石材(花棚石)を加工して復元しました。
 また、歩行者の安全を守るため、高欄の支柱は見えない所を補強しました。
橋面敷石
 橋面の石張りは斜め布敷き、乱敷きなど各橋で違いがありました。
 橋面敷石は高欄下の耳石だけが残っており、他はすべて置き換えられていました。残されていた耳石の形状から斜めに敷かれていたと判断し、消失した武之橋の石材(たんたど石)を加工して復元しました。

高麗橋の歴史

1847年 (弘化4年) アーチ完成(留入)
1909年 (明治42年) 改修工事(橋面の縦断勾配をなだらかにした)
1993年8月 (平成5年) 甲突川氾濫
1994年12月
  |
1995年3月
(平成6年)
  |
(平成7年)
高麗橋調査解体
1998年5月 (平成10年) 復元工事着工
1999年3月 (平成11年) 石橋完成

使用石材数 無傷石材数 補修石材数 取替石材数
基礎石 242 141 89 12
アーチ石 759 249 481 29
楔 石 38 38 0 0
壁 石 846 580 234 32
水切石 297 254 39 4
橋面敷石 1,477 6 244 1,227
高欄石 242 0 0 242
本体計 3,901 1,268 1,087 1,546

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